• 1011月

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    2003年2月26日、このブログを始めた日。まもなく19年。
    2020年11月23日、これから一日も欠かさず書くぞと決めた日。
    連続アップ記録、まもなく1年になります。

    なぜ私は書くのか。
    元の元をたどれば、書くことが好きだからです。
    じゃあ、このブログ、好きという理由だけで19年も書いているのか。

    3日前、「したいことをしている」というタイトルで、
    >自分にとって仕事ってなんだろうと思います。
    >少なくとも義務じゃない。したいことをしているだけ。
    >その俗称がたまたま仕事。かな。
    と書いたら、
    写真の本、『自分の〈ことば〉をつくる』の著者、細川英雄先生が、
    「自分の「好き」こそ、well being 善く生きるの元ですね。」と
    コメントをくださいました。

    するべき仕事をちゃんとしながら、でもちょっと時空を超えたところに
    逃避してみている今、読みかけのままだったこの本を読み終えたので、
    読みながらつけた付箋のところに書かれていることをたどりながら、
    私の「好き」「well being」の分析を、ちょっとしてみます。

    「好き」というのは、自分が生きたいように生きたいという自由の感覚で、
    この漠然とした感覚こそ、人間が生きていく上で最も大切なものだと。
    そうすると、私の「好きだから書く」というのは、
    私にとって、生きていく上でとても大事なこと、ということになります。

    しかし、好きだから書くということだけだったら、自分しか見ないノートに
    書いたっていいのに、なぜそれをオンライン上で公開するのかというと、
    私の生の充実のために、自分が考えていることを他の人に示して、
    お互いに表現し合う必要があるからだということらしい。

    では、私は19年間何を書いてきたか。
    もちろん、今日は何した、何食べたということも書き連ねてきたけれど、
    でも、そこにも私を込めて、私のことばで書きたいと思ってきた気がします。
    もしかしたらそれが「主張のオリジナリティ」?・・・だったらいいな。

    表現活動の一つの目標は「自分で自分を納得させるため」というのは納得。
    考えながら書き、考えては消し、さらに考えたことを書く。
    実は、ブログ一つ書くために毎日毎日それを繰り返しています。
    そうしていると、書き始めたときとは違う内容だったり結論だったりに
    行き着くことも結構あって、それがまたおもしろいなと思っています。

    「一番大切なことは単に生きるのではなく、善く生きることだ。」
    というソクラテスのことばが冒頭に、お孫さんに向けて記されています。

    私は、「一度しかない一生」だからと思って日々生きています。
    その生きた証として私は書くのかもしれません。私のwell beingのために。

    ※カバーを外して持ち歩いていて、今、この異空間にそれがない。
     加えて雨に濡れて赤い紙のインクが白いところにうつってしまった…写真。

  • 0411月

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    昨日も書いたインターネットの工事のために、
    仕事から帰宅後の今もあと少しすることがあるのに、
    またぐずぐずしています。どうにかしたい、この性格。

    写真は、今日も足利の鑁阿寺、市民の通称、大日様の
    今日は太鼓橋。屋根がある太鼓橋は珍しいのだそうです。

    さて、太鼓橋。太鼓の胴のように半円形に反った橋。
    太鼓腹。太鼓のように膨らんでいる腹。
    太鼓判。絶対に確実だという保証。
    太鼓持ち。人にへつらい、機嫌をとるのに懸命な者。

    へつらう。お世辞を言ったりして、気に入られるように
    ふるまう。おもねる。

    おもねる。気に入られるようとする。へつらう。
    (以上『大辞林』より)

    こんな風に、一つの言葉の意味を調べて、次の新たな言葉、
    さらに次の言葉を調べる、というようなことが、
    子どもの頃から好きで、いつも国語辞典を見ていました。

    そして、日本語教師養成講座で勉強し始めてからは、
    じゃあ、「へつらう」と「おもねる」の違いは何?という
    ことを考えることのおもしろさを知り、これはやめられない
    と思いました。しかし、思った割には、日本語教師だけに
    専念した期間、結構、かなり、とっても短かったですね。
    うーむ。

    ということで、ぐずぐずするの、ここまでで。

  • 149月
    Categories: ことば Comments: 0

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    最近「寝落ち」っていう言葉をよく聞くけれど、
    昔からあったっけ?と思って『大辞林』を見たら、
    —-
    ねおち【寝落ち】
    ネットワーク-ゲームやチャットなどの途中で寝てしまうこと。
    —-
    やっぱり最近の言葉みたいですね。

    昨日は、行きも帰りもzoomで会議しながら(聞きながら)電車に。
    夜、家に帰ってご飯食べて、ちょっとだけとPC開いて、
    その後おそらくキーボードの上に両手と頭を置いて爆睡(寝落ち)。
    たぶん1時間くらい寝て、手がしびれて目が覚めました。
    今日は家で寝落ちしないうちに、帰りの電車でアップしてしまいます。

    で、気づけばお彼岸近しですね。なんとも。

  • 306月

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    「鳩小屋」って知ってますか。
    建築用語で、陸屋根の屋上に設ける配管ダクトの通気のために作る
    小さなボックス。凸状の箱型で、鳩小屋に似ていることから
    鳩小屋って呼ばれているそうです。

    それを知らずに、マンションを買うときに図面を見て、販売業者に、
    「どうして屋上に鳩小屋作るんですか!」と電話。
    恥はかきませんでしたが、無知が恥ずかしかったです。

    こういう日本語、日本人にも難しいですよね。
    ◯◯小屋、ほかに、 
    豚小屋にぶち込むぞ!の豚小屋。
    日本人の家はかつて兎小屋と言われた、の兎小屋。
    キリストも聖徳太子も馬小屋で生まれた、は…違うか。本当の馬小屋?

    写真は学校。
    鳩のフン避けの工事をしていただいています。
    本当に皆様に助けていただいています。心から感謝…です。
    フンには参りますが、鳩はやっぱり幸せを運んでくるのだと思います。

  • 236月
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    エスカレーター、
    東京は、右が歩く人、左が歩かない人、
    大阪は、右が歩かない人、左が歩く人。
    その、左が歩く人の地に来ました。

    石黒圭先生が書かれた、
    『日本語は「空気」が決める 社会言語学入門』(光文社文庫)
    という本に、「肉まんか豚まんか」という話があります。

    皆さんはこれを何と呼びますか。

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    私は関東で生まれ育ったので、
    これは「肉まん」で、中には豚肉が入っています。
    けれど、中が豚肉だったら、関西の人は「豚まん」…ですよね。

    どうしてそう呼ぶかと言うと、
    関西の人にとって「肉」と言ったら、普通「牛肉」を指すから、
    この、中に豚肉が入ったものを「肉まん」とは呼ばない。
    もし、肉まんと呼ぶなら、中に牛肉が入っていてしかるべし。
    一方、関東の人にとっては「肉」と言ったら豚肉が普通だから、
    豚肉が入っているこれを「肉まん」と呼ぶ。

    ということから、関東の私が「豚まん」と言っている人を見たら、
    「ああ、おそらくこの人は関西の人なのだな」と思うわけです。
    反対に、「肉まん」と呼んでいる人のことを、
    関西の人はおそらく「関東の人だな」と想像するのですね。

    このように、話し手が話した言葉から、
    聞き手が話し手の背景を想像できるのは、
    なぜその言葉が選ばれたかを、
    話し手の所属しているグループに結びつけて理解するから、
    なのだそうです。
    この、普通を「無標」、特別を「有標」と言います。

    …と、これは、日本語教師養成講座通信コースの基礎講座で
    私が担当している「社会言語学」の中で話していることです。
    こういうことを「おもしろい」と思えたら、
    向いていると思います。日本語教師に。ようこそ!同業に。

    で、どうして大阪に?は、教育総合展(EDIX)関西のためです。

  • 076月

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    「初のタイトル防衛戦「棋聖戦」初戦勝利」の藤井聡太くん、
    前日に、シリーズを通しての戦略を聞かれて、
    「戦略においては、渡辺名人に一日の長があるかなと思っているので、
    こちらがしっかり考えて対応していければと思います」と。

    普通の18歳が「一日の長」なんて言葉を使う、使えるのだろうか。
    自分はどうだったか。今でこそ、その意味を知ってはいるものの、
    18の時はもとより、これまで日常会話で使ったことがあっただろうかと。

    偉大なり。

    「藤井棋聖は、木更津名物の「あさりカレー」。渡辺三冠は「カツ丼」。
    両者ともにドリンクは注文しなかった。」という報道が貧弱に見えます。
    まあ、何を食べたかが常に話題になっているから、いいんですが。

    で、言わずもがなですが、「一日の長」の読みは「いちじつのちょう」、
    「いちにちのちょう」ではありませんので、念のため。

    ※私のLINEのプロフィール写真。将棋がなかったのでチェスで代替。

  • 026月
    Categories: ことば Comments: 0

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    たとえば就業後の職場で、
    自分が帰ったらその人が一人になってしまうようなときに、
    その人に向かって「ねずみにひかれないようにね」って、
    ・・・言いませんか?
    「え?何それ?」って顔をされることが多いんですが。
    (実は今日の二人もそういう反応でした。)

    言葉って、意味や語源を教えてもらって覚えるのではなく、
    人が使っているのを聞いて、その場面や状況と一緒に覚える、
    そうやって身につけるっていうこと、とても多いと思います。

    知らないっていうのは、使う環境にいないっていうこと?
    それを知らない人が、それを使う環境を作るということはない、
    すると、それを知る人、使う人がいなくなる。
    そうやって言葉がなくなる。
    味わいのある言葉も消えていく。寂しい…ってだけの問題?
    言葉ってそういうもの?

    「ネズミにひかれそう」、大辞林には、
    家の中に一人きりでいて寂しいさまを言う。・・・とありますが、
    そこにあった物が神隠しにでもあったように、いつの間にか姿を
    消してしまうこと。もっと詳しく知りたい方は、こちら

    学校にいる私とzoomをしたことがある方は見覚えがあるかも。
    この写真のぬいぐるみの前に座って、私は仕事をしています。

  • 175月

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    困ったときの、◯年前の今日の写真。
    これ、2年前の今日、学校近くの台湾家庭料理「新竹」。
    誰かの歓迎会だったり、海外からのお客さん来日だったり、
    なんだかんだで、こんな食事会というか、飲み会というか、
    こんな会を、教職員皆に声をかけて、しょっちゅうしてました。
    座る席は毎回くじ引きで。これ良い習慣。

    ところで、のみニケーション、『大辞林』にも出てるんですね。
    「俗に、一緒に酒を飲むことで、親睦や交流を深めること。」
    Wikipediaにもあります。
    「飲みニケーションにおいては、居酒屋や居室等に集合し、
    酒を摂取しながらコミュニケーションを行う。酒に含まれる
    エタノールによって、参加者は酔い、脳が麻痺するため、
    抑止力が低下し、本音で話ができる等の変化が起こる」と。

    私は好きです。好きなのに、もう一年以上機会がないなんて。
    ・・・でも、あと少し。きっとあと少し。

  • 143月

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    クリスマスローズとヒマラヤユキノシタという名の花らしい。
    向かいの奥さんに、庭に咲いたのをいただいたと、
    実家の母から写真が送られてきました。

    今まだ自分の言葉として私の脳みそに格納されていない、
    たとえばワーケーションとかワークバランスとか、
    そういう言葉も、いろんな人が私との話の中に織り交ぜて
    くるので、その度に私は一旦立ち止まって、
    自分の中の日本語の意味と照らし合わせて話を続けます。

    この間の沖縄での数日がワーケーションで、
    私は、これあり!と思ったのですが、半リタイア後のスタイル
    なんでしょうかねえ、管理優先の日本では。
    それとまあ、対面が前提の私たちのような稼業では難しい。

    ワークバランスは、仕事とプライベートのバランスってこと?
    仕事が趣味と言われて大否定できない過去は過去でいいとして、
    私のこれからのこと、考えてしまいました。
    三つ子の魂なんとかだから、考えることに意味ない気はしつつ。

  • 093月

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    『きらめく拍手の音』手で話す人々とともに生きる
    イギル・ボラ 著 矢澤浩子 訳(リトルモア)

    訳者の矢澤さんから、
    「手話は言語であり、聾はひとつの文化であると教えてくれる本書は、
    二つの言語と二つの文化の間で生きる私の胸に響いたように、
    異文化・多文化、そして言語教育に携わる加藤先生にも何か伝わる
    のではと思い、お送りしました」という手紙と共に届いてから2ヶ月、
    読み始めた先週金曜日と今日とで読み終えました。

    矢澤さんが書いてくれた通りでした。
    今まで私が言ってきた異文化間理解だったり、多文化共生だったり、
    その中に当たり前に在ることなのに、意識の中に置いていなかった。
    本当にもう、今の今、それに気づかせてもらったという気持ちです。

    正確に言うと、気づいたのは先週の金曜日、沖縄に向かう飛行機の中。
    285ページ中まだ83ページまでしか読み終えていなかったのに、
    あ、これ、同じことだと、土曜日の文化庁の日本語教師初任研修で
    (トークショーのように)最終回の講座をする中で突然思い、
    衝動的に画面の向こうにいる受講生の皆さんにこの本の話をしました。

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    写真に印字された日付によると、1996年7月26日。
    当時委託されていたアメリカのある大学からの交換留学生クラスの
    学生たちとの小旅行。どこだったかな。
    緑の西田先生と、ピンクの私と、白の矢澤先生が矢澤さん。

    今、自分の時間が止まった、いえ、止めたからできた時間です。
    そこで本を読み、自分を振り返り、これからを考え…。
    こんな時間、そしてこの本、どうぞ皆様も。