サポーターというよりメインキャストたち。
海を越えても渉外係の私の留守ブースが完璧なのは皆のおかげ。
タイ語でコップンカー、日本語はありがとう😄✨
外にほとんで出ていないため、本日再びホテルのTV画面の写真。
海外のNHKワールドテレビでよく放映されている「小さな旅」。
一週間後には日本に帰るのに、テーマソングを聴くと必ず
郷愁に浸れてしまうという、パブロフの犬状態の番組。
今日は、群馬県の「みなかみ」でした。水上温泉の水上。
町の名は平仮名でみなかみなのだ…と、タイで気づく。
สวัสดี ค่ะ!サワディーカー!
昨日の早朝、寒気のTokyoから、暑気のBangkokに。
東京→バンコク、4610.33キロ…と書いてもピンときませんが、
だいたい7時間くらいで。
あ、耳の鼓膜に開けた穴に刺してあったプラスティックの通気ピン、
一昨々日、無事外してもらいました。というか外れて浮いていた。
なので、空路、耳も無事。
夜、ホテルの部屋のテレビをつけたら稀勢の里。
毎年、節分に我が府中の大國魂神社で豆まきをしてくれるのですが、
横綱になって初でニュースに!成田山新勝寺から約100キロの移動。
こちら、王様崩御の服喪中で、街行く人は白いシャツの人以外は皆、
概ね黒っぽい服装をしています。私も今回は黒系で、ふぁいと。
香港&マカオでの、
「若手の先生時代」にタイムスリップした3日間は、
あっという間に過ぎて、もう帰りの飛行機の中です。
最年少、20歳だった学生が50になっていました。
30年の日々も、振り返ってみるとあっという間、
けれど記憶をたどると、一年一年はやっぱり重いです。
インターカルト日本語学校は、来年、創立40周年、
40年分の卒業生たちが東京に集合!…を企画中です。
※詳細、決まったらお知らせしますね。
1977年にY理事長が興したインターカルト、
その後、色々色々、本当に色々を経ながら、
T本部長、O社長の後、2000年に私が引き継ぎました。
2002年の25周年の時は、創設以来の教職員の方々を招いて、
それまでのお礼と、これからは私たちが!宣言の会をし、
2007年の30周年の時は、お世話になっている外部の皆さん、
他校、進学先や業者さん、そして応援団の方々を招いて、
私たちはこういう学校を目指します!のような宣言の会を。
2012年の35年目の年は、震災の翌年、そして…、
すべてにおいて原点に立ち返る年となり、会はもちろんなし。
そしてこの間、11月にした教職員の自己評価のシートに、
40周年記念に何を?…を記入してもらったところ、
今までの“卒業生&教職員”で大同窓会!が断トツという結果。
…よって、来年します。
目的地(羽田)までの飛行時間 1:05。
大晦日に、日にちが変わる前に大急ぎで家に帰ります。
香港の皆さん、ありがとうございました!
皆がいた2つのクラスを持てたことは、本当に幸運でした。
インターカルトで教え始めて間もない頃、
教えることにも、準備にも、学生と遊ぶことにも、
100%ずつ、計300%全力投球していました。
その頃の学生たちが今年、日本留学30周年で、
その非公式!同窓会のため、香港に向かっています。
彼ら彼女たちとは、20周年も25周年もしていて、
今は他校で教える、当時一緒にクラスをもっていた
ochiai 先生と、今回も一緒に(違う便で^^ )行きます。
あの頃のように、なーんのしがらみもなく、
ほとんど年の変わらない元学生たちを前に、
ピュアな日本語の先生に戻るのは、
今年の締めくくりとして、とってもありですね。
窓下に見えた富士山の姿も絶好調!でした v(^.^)v
訪ねた先で、学生たちに「こんにちは!」なんて挨拶されると、
それだけで「ここ、いい学校だな」って思っちゃうよね。
…と、今日、訪ねてくださったお客さんが。
つまり、それ、私たちの学校の学生たちのことで、
聞いた私は正直にもうほんとに嬉しかったです。
今宵は、インドネシアの提携事務所の皆さんと。
インドネシア語で、スラマッパギ→おはよう、
スラマッマラン→こんばんは、で、こんにちは!は、
早い時間帯はスラマッシアン、夕方近くになるとスラマッソレ、
と変わるので、スラマッ…の後、いちいち時計を見て、
シアンか、ソレか考えなければならず、昔々のインドネシア駐在時、
その度に、わー!大変と思ったものです。
インドネシアの方と会うと、昔の楽しかった色々を思い出し、
ホッとした気分に。サヤ チンタ インドネシア「 I ❤︎ Indonesia!」
明日は12月下旬の気温とか。暑い国の皆さん、風邪ひかないで。